平成14 (2002) 年度「文化論コロキウム」発表記録
  

 

 

テーマ&要旨2002年11月25日 (月) 14時31分 Web 掲示板投稿(山本昭彦)

 

  

コロキウム:テーマ「個性」

 あなたは自分が個性的な人間だと思いますか。自分には十分な個性があると思う思わないに関わらず、現代は個性が重要視される時代です。個性を身につけなければならないと、焦りを感じている人もいるかもしれません。しかし、何故今このように個性という言葉が氾濫しているのでしょうか?その言葉の裏には何が潜むのでしょうか。

 現代日本を象徴するかのようにも見える「個性」というキーワードを巡って、皆様と議論していきたいと考えます。

 

 

 



発表報告2002年11月28日 (木) 17時35分 Web 掲示板投稿

11月28日コロキウム報告書

「日本人に個性はあるのか」

                              小林 翔   澤田 萌
                              (担当教官:後藤)

(1)話題提供

最近になって日本人に「個性」が求められるようになってきた傾向があるように見られ、これは議論する価値がある問題だと思ったので話題として提供しました。何故現代になって個性が特に大きく取り上げられるようになったのか、実際にはどのような個性が必要とされているのかなどを調べて発表することにしました。

(2)レジュメについて

まず日本人固有の個性というものが存在するのか、もし存在するとすればどのようなものがあるのかというのを別紙とともに解説しました。日本人の宗教観、自然観、そして言語から日本人特有の民族的個性を導きだしました。次に今求められている個性というものがどういったものかという事を、企業、教育の面から説明、またまちづくりについての個性も併せて述べました。最後に論点として、現在の学校教育と個性との関係、個性があまり詳細に述べられない問題を挙げました。

(3)議論の流れ

 質問として、個性の定義を明確にするべきだというものがありました。その解答には、個性というものは個々人の特質として他の人にはない性質を持っている事であるとの定義を述べました。性格的な個性については論じないのかという質問に対して、それについても触れられるのであれば論じたいとの解答をしました。中央教育審議会において個性が重んじられるようになったのはいつなのかという質問があり、それは1984年が最初であるとの解答をしました。
 学校教育において個性を伸ばすような教育を受けたかどうかという問題から議論が開始し、具体例として数学で宿題を自由に解いてくる事を求められた事が挙げられた。しかしそういうことは一時期であり、すぐに受験等によって画一化された教育に変化していくとのことであった。個性豊かな教育とはどのようなものかということが問題になり、足の速い人間の推薦入学の話が例に挙げられた。教育現場で伸ばされようとされる個性というものは足の遅い人間のような役に立たない個性ではなく、企業のような場において役立つ個性だけが評価されるとの意見があった。84年以前は、平等に画一的に能力を伸ばす事が求められていた。現在個性が必要とされるのは資本主義において経済的な行き詰まりを日本が見せており、そういったものを打破するためのものであるということとなった。また、個性には天才性が必ず付加されるという意見が出て、現在個性が叫ばれているがそういった声は逆に個性を出せない人が意気消沈を起こすのでよくないとの意見があった。必要とれている能力を伸ばすこと、すなわち能力至上主義の観点から、社会生活を営む最低限の能力が今必要とされているものであるという意見が出た。また、音楽などの早期教育、あるいは飛び級を適用することは人格をゆがめるのではないかという早期教育の問題についての議論となり、エリート教育について、同質の人間が集まるということが個性を伸ばす教育であるという考え方と、アメリカのように同一高校からは入学できる人間の数が決まっているという、能力主義と対立するような、差異や多様性を重視することこそが重要であるという考え方との対立について問題となり、最後に能力よりも人格、普遍的な人間性を伸ばす教育が重要であるという意見により締めくくられた。

(4)結論/感想

 今まで個性を伸ばす教育についての一面しか見えていなかったものが、外国との比較により新しい一面が見えてきました。個性というものの多面性と考え方の相違について、得るところが多くあったように思います。普遍的な人間性や人格のなかに個性が存在し、能力だけを伸ばすのではなくてそれらを同時に伸ばしていくような教育が求められるべきだと思いました。