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テーマ&要旨:2002年05月02日 (木) 00時00分 電子掲示板投稿 |
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来週のコロキウムは『フーリガンは何故暴れるのか?』がテーマです。 いよいよ来月に迫ったサッカーW杯。そんな中で懸念されているのがフーリガンの問題です。フーリガンとは、競技場の内外で乱暴を働く熱狂的なサッカーファンです。彼らの暴動を抑えるために様々な対策が練られてきましたが、彼らの勢いは留まることを知りません。何故彼らは暴れるのでしょうか?そして、現在はマナーが良いとされている日本人サポーター。いずれは彼らもフーリガン化してしまうのでしょうか?今回はこのことについて考えてみたいと思います。 |
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発表報告:2002年05月23日 (木) 19時00分 電子掲示板投稿 |
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◇ コロキウム報告書◇(5月9日発表) 発表者 小山信太郎 小原香奈子 高橋史子
● 話題提供について(レジュメ要約) フーリガンは、サッカー場や町で乱闘騒ぎや暴力事件を起こす人たちのことであり、1980年代にイギリスからドイツ、オランダ、イタリアに広がり、現在でも深刻な社会問題となっている。フーリガンによって、多数の死者、負傷者が出る事件も数多く起こっている。
●質問とその答え 「サッカーが暴力的だったのはいつの時代か?」 サッカーという競技のルールが正式に確立されるまで、フットボールとよばれるサッカーの前身のようなスポーツが、ヨーロッパ各地で行われていた。フットボールは、しばしばゲーム中にこぜりあいが起こるなど、激しいスポーツだったので、14世紀にフットボールやそれに類する競技を一切禁止するという事態が起こった。
●議論で出された考え ・サッカーはフーリガンにとって単なるきっかけにすぎない サッカーはフーリガンの本質とは特に関係はなく、全く別個のものとして考えた方がよいのではないか。フーリガンの本質とは、自分の国、あるいは民族が世界で最高、最強なだということの誇示であり、そのために攻撃的、暴力的になるのだという事である。イングランドのフーリガンが特に凶暴である理由として、第二次世界大戦までの、世界一の植民地大国であったという過去の栄光に誇りを持っていることが挙げられる。こういったナショナリズムのはけ口として、たまたま自らの国が発祥の地であり世界的スポーツとなっているサッカーが最も適していたという事だろう。現実として、現在経済・武力というパワーゲームに勝っているアメリカでは、フーリガンの暴動は起きていない。
・日本には暴走族がいるからフーリガンは出てこない フーリガンは日本の暴走族と同じようなものではないだろうか。暴走族にとって社会的な不満のはけ口がバイクや車なのであり、同様にフーリガンにとってのはけ口はサッカーなのである。ここには似たような構造が見られる。バイク・車はスピードが出て連続した動きがあるもの。サッカーもまた選手やボールは常に素早く動いている。また、暴走族は集団である。その対立も集団対集団であり、サッカーと似ている。これは戦争に連想されるので人間は興奮をおぼえるのだろう。サッカーにおいて暴力的になる要因がここにあるのではないか。日本でフーリガンになりうるのは野球のファンだが実際にいない。野球はそこに停止の場面が多く、連続した早い動きが少ないからであり、フィールド上においては基本的に投対打という一対一の構図だからである。しかし日本にとってのフーリガンの役割を暴走族が果たしているので日本にフーリガンは現れないのではないだろうか。
・サッカーというスポーツの持つ歴史的背景との関連 サッカーは元々年に一度、町全体で行われるお祭りのようなものであったらしい。祭りのときは、羽目を外して暴れるという行為もある程度までなら容認される。(例えば、青森のねぶた祭りなどでは毎年怪我人が出るほどみんな暴れまくるが、祭りという非日常的な場面でのことであるため、誰も咎めない) そういう、サッカーの持つ祭り的な性格が、人々を興奮させ、暴力的にしてしまうのではないだろうか。 * 議論では、私達が考えつかなかった、サッカーの持つ「祭り」的な要素がフーリガンが暴動を起こす原因の一つだという考えが出たことが面白かった。反対に、フーリガンにとってサッカーはただの口実であって、フーリガンとサッカーの繋がりに必然性はないという意見も多数出た。それから、将来日本人からフーリガンが出ることはあるのかという論点については、「出ないだろう」という意見が多かった。理由として、「日本人には愛国心があまりないから」「サッカーが弱いから」、「暴走族がフーリガンの代わりになっているから」、「サッカーよりも野球がメジャーだから」というのが挙げられた。 今回のコロキウムは、学生が積極的に発言し議論が盛り上がった。だが、始めの方で「フーリガン」の定義についてが曖昧だったために、スムーズに議論に入れなかった。議論の中心となる言葉はしっかりと定義づけしなければならないと思った。これを次のコロキウムに活かしたい。 |
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