平成14 (2002) 年度「文化論コロキウム」発表記録
  

 

 

テーマ&要旨2002年05月10日 (金) 15時23分 電子掲示板投稿

 

  

 「恥の文化について考える(仮)」

 電車の中で平然と化粧をする若者・・・。
 それを見ていた親子。
 親はそれを『恥ずかしい』と言い、子はなぜ親がそう思うのかが分からない。

 親子の間に意見の違いは、『恥』の概念、行動等が時代の流れにつれて変わってくることを意味しているのでしょうか。

 『恥』の概念は変化するものなのでしょうか。そうだとしたら、なぜ変化するのでしょうか。

 今回は、『恥』の概念について確認しつつ、具体的事象を思い浮かべながらこの問題について考えていきます。 

 



発表報告2002年06月02日 (日) 14時46分 電子掲示板投稿

 

 

文化論コロキウム報告書 恥の文化について考える

5月16日発表
発表者:加藤央子 長津瑛子 川崎能大
担当教官:佐竹正一

 

●議題の提示と資料提供

 電車の中、人前で平然と化粧をする女性。もはや見慣れた光景ではあるが、この行為に関しての見る側の意見はおおむね二つに分かれる。「人前であんなことして恥ずかしくないのか」という車内(人前)での化粧に反対する立場と、なんらおかしなことではない、とする立場。前者は、主に年配者が多く、若者のほとんどが後者のようだ。(統計をとってはいないので、推測であるが。)
 以上のことから、年代によって恥の意識が違うのはなぜかという疑問が湧き、コロキウムの話題とすることとした。議題は、なぜ違うのかということの一歩手前の段階から考えるために、「恥の意識は変わってきているのだろうか。変わっているのなら、それはなぜなのだろうか。」とした。

 資料は、恥について考えるための最低限の知識として一般国語辞典、ルース・ベネディクト、作田啓一、井上忠司、マックス・シェーラーがそれぞれ論ずる恥の概念をまとめた。

 

●議論

 「恥の意識は変化せず、対象が変わるのだ」という考えが議論の最初に出された。そのため、「恥の意識は変わってきているのか」という議題では話し合いがしにくいので、議題を一部変更して、電車の例をあげながら、「なぜ恥を感じる人と、感じない人がいるのか」について議論することとなった。
 恥を感じるものについては、電車という場は化粧をするのにふさわしくないと意識しているからそれを恥じる、という意見がでた。また感じないものの立場の意見は、化粧をしていない状態で人前にいることのほうが恥ずかしいから、行為自体に恥を感じない、ということだった。どちらの場合も基準の問題である、とまとめられた。
 そして、なぜ恥を感じるのかという、恥の本質についてに議論は移った。ベネディクトの罪と恥についての論を引用しながら、相手の立場にたつのが恥の本質だ、という意見がでた。さらに、日本において恥の意識が強いのは、和を尊ぶが故であると言い加えられた。また、作田啓一の論から、恥とは優劣の感情であるという意見も出された。
 次に、恥の対象が変わるのだとされたが、それはなぜかという議論になった。意見の多くは、集団意識が薄れてきているから、というものだった。さらに、「個性をもて」の教育が進められるようになって、集団から離れていくことが必然となった、という意見へと発展した。所属集団自体がないのだという意見もでた。
 恥の意識そのものが変化することはないが、対象は変化している。そしてそれは、集団意識の薄れからきているのだ。それによって、恥の量の比重が個人によって異なるのではないか。議論は大体このような結論にまとまった。

 

●感想

 恥の意識は変わることはないが、その対象は変わり、それは集団意識の希薄化にある。発表の前にわれわれが考えた一応の結論と、実際の議論での結論は同じものであった。理想としては、これ以外の考えも聞きたかった。恥の本質についての議論に大体の時間を費やしてしまったので、こうなったのだろう。「なぜ」の部分を中心に話し合いたかったので、議題ははじめから「なぜ変化するのか」とすればよかったと反省できる。
 また、今回は学生の意見がほとんど聞かれなかった。残念に思う。どうすれば学生の意見が増えるのか、考えるべきだと感じた。