文化論コロキウム 報告書
テーマ:「柳美里裁判に見るプライバシーと表現の自由」
発表日:2004年1月29日
発表者:杉浦幸恵 山口達哉 和田千帆
指導教官:佐竹正一
○問題提起
平成6年、柳美里の小説「石に泳ぐ魚」でモデルとされた女性がプライバシーを侵害されたとして訴訟を起こした。裁判ではプライバシーの侵害が認められ、小説は出版差し止めとなった。裁判中、柳美里はプライバシーと表現の自由との間に一定の基準を求めるコメントを出した。この裁判を題材にプライバシー、表現の自由とは何かを踏まえつつ、両者の線引きはどこでなされるべきか探っていこうと考えた。
○発表内容要約
はじめに柳美里裁判についてそれぞれの裁判の判決と柳美里の主張を紹介した。次に、柳美里の立場を擁護する意見や、表現の自由が法的にどのように位置付けられているかを紹介した。次に、プライバシー件のもつ様々な性格を、諸外国でのプライバシー権について触れながら説明した。その後、論点に対する意見を各々が述べた。
○論点
プライバシーとは何か?
プライバシーの保護と表現の自由はどこで線引きされるべきか?
○質問
・柳美里の主張にある「純文学」とは何か?
→娯楽要素の強い大衆文学と区別され、人間の問題や社会、人生等をテーマとしている文学のこと。日本以外ではほとんど使われず、現在では区別自体がおかしい、との声もある。
・「私小説」とは何か?
→登場人物が筆者と同一人物であるかのような印象を読者に与えるような小説。作家の私生活公開の要素を売りにする場合もある。
○議論の流れ
まず、柳美里の主張である「純文学だからプライバシーを侵害していない」と「両者の間に一定の基準を」の二つの意見は矛盾しているという指摘があり、表現の自由の中にもある程度制限があり、何を書いてもいいというわけではない、という意見が出た。
また、改訂版として出された小説の中に、グロテスクな表現がなければ筆者の伝えたいテーマが全く伝わらないということはなく、作家の想像力によりそのような表現がなくともテーマは伝えられたはずであり、それが出来なかったのは作家の力量の問題である、という意見が出され、その意見に賛同する声が多数を占めた。「表現の自由」については、作家の取りあげる“テーマ”は確かに自由だが、そのテーマを具体化する場合に使う“モチーフ”は自由ではなく、現実の人物を傷つけることは許されない、との意見が出た。
また、論点については、裁判の判決では表現の自由については触れられておらず、現実の損害についてのみ言及されていることから、裁判で一定の基準を示すことは無理である、という結論が出た。また、もともとプライバシーと表現の自由の発生は別次元の問題であり、柳美里の主張には無理がある、との意見が出された。その後、プライバシーが侵害されているかを判断するのは読者しかいないという意見も出たが、読者にその能力がないのではないか、という意見も出された。
その後、私人のプライバシーは保護されるべきだが公人のプライバシーが過剰に保護されるべきではない、との意見や、公人であっても公共の利益にかかわる情報とプライバシーとを区別するのは容易ではない、との意見が出た。また、プライバシーとは社会の共通理解により変わるものだという指摘が出た。
○結論
・表現の自由とは表現「方法」の自由であって、実際に表現する際の自由を指すものではなく、ある程度規制されるものである。
・プライバシーが侵害されているかを判断するのは読者しかいないが、現在では読者にその能力があるとは言えず、これからその能力が求められるのではないか。
○感想・反省
・私小説や純文学といった文学の分類についての事前に調べられていなかった。
・論点についての自分たちの考えが足りなかったように思う。
・ある程度プライバシーの侵害と表現の自由との衝突について考えられたが、議論をもっと深められれば良かったと思う。
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