コロキウム I 班報告書
テーマ:『日本人にユーモアは必要か?』
発表日:7月3日
発表者:飯田美紀子 佐藤徳洸 佐藤万里子 成田ひろみ
担当教官:菊地良夫
(話題提供)
よく日本にはユーモアがないと言われている。それはなぜなのか。そして、それは本当なのか、本当だとしたら日本人にもユーモアが必要とされているのかということを考えてみたく、このテーマを選んだ。
(発表内容要約)
まず、日本におけるユーモアの種類を例を交えながら説明した。次に近代以前に日本にユーモアはなかったのかという点を考察し、欧米におけるユーモアの例を示した。そこで、日本にユーモアがないとされるのは、欧米のそれとの”質”が違うためで、人間関係の潤滑油としてのユーモアとエンターテイメントとしてのユーモアとの違いであるとの自分たちの意見を述べた。
(論点)
論点は、題名の通り「日本人にユーモアは必要か?」を考えることにしていたが、深いテーマなため、限定してしまうと議論の広がりが制限されてしまいそうな気がしたので、あくまで議論の出発点としての意味合いをもたせるにとどめた。議論の流れの中では、コミュニケーションにおける日本人と欧米人とのユーモアの必要性、重要性が主な論点となった。
(議論の流れ)
まず、ユーモアのはっきりした定義を教えてほしいといった質問や「日本人」と限定していることについての質問が出された。ユーモアの定義、語源については小林先生がプリントを配って説明をしてくれた。また、「ユーモア」、「パロディ」、「アイロニー」との違いについての質問も出された。意見としては「笑う人」と「笑われる人」の関係についてのことや、ユーモアだけを切り離そうとせず、人間関係、コミュニケーションの点から考えてみては?との意見が出され、そこから議論が広まっていった。欧米ではユーモアがないとコミュニケーションがギクシャクするのか?日本ではユーモアが無くてもそれほど困らないのではないか?日本では上下関係のなかでの押しつけによりユーモアを言うチャンスがないのでは?という点での議論の展開があった。また、ヨーロッパではユーモアを美学としてとらえることもあるとの意見も出された。
(結果と反省)
コミュニケーションの意思を持ったときに初めてユーモアが生まれる。日本はそういう努力をしない、もしくは雰囲気がよくなるといったことを考えないのではないか?日本には「言わなくてもわかるだろう」というような空気があり、欧米には無い。だからコミュニケーションの潤滑油としてのユーモアが必要になるのではないか、という結果がでた。
反省として、テーマの深さに対して、ユーモアそのものについての考察や調査が足りなかったように思う。また誰もが感じたことのあるテーマのため、活発な議論を予想していたが、実は難しいテーマだったようで、学生の意見は思ったほど出なかった。
だが、発表当初は不透明だった論点や問題にしたい点が鮮明になったので、次があれば、より有意義な議論が展開できると思う。また、美学という視点からもう一度調べてみるのもよいかもしれない。
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