報道にみられる文化の質

 

後 藤 尚 人  

 

 「XXさ〜ん! 先日YYさんと一緒にお食事をされたようですが、お二人の関係は?」と、タレントに食い下がる芸能リポーター。「やや、XXはYYとできてたのか…」とばかり、つい《ワイドショー》に引き込まれてしまうわれわれ。こうした構図を生み出す番組制作者と一般視聴者との関係はニワトリとタマゴのようなものだが、両者を含む《ワイドショー》現象には、俗物たちの野次馬根性が濃縮されてはいるものの、教養とか文化の質(の高さ)といったものはほとんど感じられない。
 では、テレビのニュース番組や新聞の紙面といった、いわば硬派の報道からわれわれが感じとっているものは何か?
 われわれは通常、ワイドショー的ニュースよりも報道番組において伝えられるニュースの方を、より高次のレベルに位置づけている。少なくとも話題として選ばれている対象の質が違うというわけである。とはいえ、そうした報道のうちに教養とか文化といったものが感じられるかといえば、それも心許無いと言わざるをえない。つまりワイドショーであれ、硬派の報道であれ、その距離は五十歩百歩であり、残念ながら共に野次馬根性の権化でしかないと思われる。ただしそう断言できるとしても、その状況はわが国の報道のあり方を取り上げた場合という条件がついている。
 「パパラッチ」という言葉を有名にした英国王室に関するゴシップ記事の例からも窺えるように、他国においても俗物根性丸出しのワイドショー的現象は存在するし、硬派報道についても日本と同じような報道(様式)を行なっている国々もあるだろう。しかし、報道に関して、何をどのように伝え、何を伝えるべきでないか、という基準をいちはやく確立し、そのことによって、一般大衆の好奇心のありようをわが国とは異質なものに変えていった国々(北欧諸国)がある。
 講義ではそうした報道先進国の事例を紹介しつつ、報道に高貴なもの感じられないのは、その対象のせいではなく、その報道の在り方自体が問題なのだということを検証してゆきたい。

 

参考文献
ウォルタ・リップマン、『世論』(1922)、岩波文庫、上・下、岩波書店、1987
ディヴィッド・ハルバースタム、『メディアの権力』(1979)、朝日文庫、全4巻、朝日出版社、1999
浅野 健一、『犯罪報道の犯罪』(1984)、講談社文庫、講談社、1987
浅野 健一、『マスコミ報道の犯罪』(1993)、講談社文庫、講談社、1996
アラン・マンク、『メディア・ショック』(1993)、新評論、1994

 

【平成13年度総合科目講義要項 後期 文化論 IV:現代文化論「メディアと文化」より】