小説における「本当らしい」視点、その理論化と現実

 

後 藤 尚 人  

 

 文学はそもそもフィクションとはいえ、作品に描かれている対象が人間社会である限り「本当らしさ (le vraisamblable)」は読者を共感させる重要な要因として機能している。貴族の娘シメールが自分の父親を殺した犯人ル・シッドと結婚するという設定は、17世紀のフランス演劇界においてはとうてい受け入れがたいものであった。たとえその話が実話であったにせよ、「歴史家にとっては良くても、詩人には三文の値打ちもない」(ジョルジュ・ド・スキュデリ「『ル・シッド』に関する批判」)というのである。

 作品の筋立てレベルでは比較的理解しやすいこの「本当らしさ」も、描写レベルにおいては必ずしも同じ効果を生むとは限らない。様々な視覚メディアに馴らされているわれわれにとって、全体を一挙に把握し得る鳥瞰図的視点と、雑踏のなかで自分の眼の高さから見える範囲だけを再現する等身大の視点とを比べる(cf.「ワーテルローの闘い」における、ユゴーとスタンダールの描写)なら、「本当らしさ」は後者であるが、仮にそうした目線からだけで撮影された映画があるとして、われわれはどれくらいその映画を観続けることができるだろうか?

 19世紀の作家は、意図的であれ、無意識的であれ、読者を小説世界に引き込むために多くの仕掛けをあみ出した。その伝統を受け継ぐモーリアックの小説技法をサルトルが批判したことで、作中人物を操作・支配する《神の視点》は現代小説において「本当らしさ」を欠いたまやかしの技法との刻印を押されてしまう。語り手も一人の人格者であるなら、知り得ないことを知っていてはいけないし、登場人物の人格や行動の自由を奪ってはならないのである。

 ひとたび小説技法における欺瞞性が問題視され始めると、ヌーヴォー・ロマンの書き手たちは、一貫したストーリーを破壊し、語り手の視点をカメラ化し、小説世界内の時間を再編し(前期ヌーボー・ロマン)、ついには、登場人物の匿名化や語り手の多元化などの実験を通して、統一的世界観としての小説そのものに疑問を呈する(ヌーボー・ヌーボー・ロマン)に至る。現実世界は古典的小説に取り込まれたようなものとしてあるのではなく、ヌーボー・ロマンが描き出す《読み得ぬ世界》こそが現実界を具現しているというわけである。

 1960年代を軸にしたこのような試みは、「本当らしさ」という、より多くの人に共感を生むことを目指して始められたものの、一部のマニア以外は誰もヌーボー・ロマンを読まないという結果に終わっている。過剰なまでの理論化の試みは合理的判断を逸脱してしまったようだ。

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【参照文献】

*G・ド・スキュデリ「『ル・シッド』に関する批判」、in 『コルネイユ名作集』、白水社、1975、pp.491-506

*ユゴー『レ・ミゼラブル(一)』、岩波文庫、岩波書店、1987

*スタンダール『パルムの僧院(上)』、岩波文庫、岩波書店、1969

*フランソワ・モーリアック『小説家と作中人物』、現代小説作法、ダヴィッド社、1957

Jean-Paul Sartre, « M. François Mauriac et la liberté », in Situations I, coll. ‹ Idée ›, Gallimard, 1947, pp.43-69.

*アラン・ロブ=グリエ『嫉妬』、新潮社、1959

Jean Ricardou, Le Nouveau roman, coll. ‹ Écrivains de toujours ›, Seuil, 1973

*鈴木重雄『続 ヌーヴォー・ロマン周遊』、中央大学学術図書、中央大学出版部、1999

*ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』、記号学的実践、書肆風の薔薇、1985

*フランツ・K・シュタンツェル『物語の構造』、岩波書店、1989

Jaap Lintvelt, Essai de typologie narrative : le "point de vue", José Corti, 1981

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【平成13年度総合科学論講義要綱:現代学問論(合理性と非合理性) より】