戦争と平和:平時における戦争の概念

 

後 藤 尚 人   

 

 従来「国家間において,主として武力を行使して行われる闘争」と解されてきた戦争も、今日では「国家を含む政治的権力集団間で,軍事・政治・経済・思想等の総合力を手段として行われる抗争」(『マイペディア97』参照)と理解されるらしい。もっとも、「受験戦争」や「交通戦争」、「心理戦争」などにみられるように、直接的に武力・軍事力を介さない用法も巷には溢れている。とはいえ、絶対用法としての「戦争」は、暴力による殺し合いで決着をつけようとする究極の紛争解決手段にかわりはない。

 知力によって地上の支配者となった人間は、他の動物からの脅威が薄れるや、もはや敵は同類にしかいないと思ったのか、絶えず戦争の名のもとに殺戮を繰り返してきた。そして奇妙なことに、この殺し合いには一定の不文律が介在し、それゆえルールに則った勝利者は戦いを正当化でき、英雄として扱われる。戦争法規なるものが存在するゆえんである。

 国際法において戦争が違法と認識され始めるのが第二次大戦後でしかないという事態が示すように、人間は戦争という殺し合いを合法化してきたのである。それゆえ、殺し合いのルールを守らなかった行為に関しては、ジェノサイドはもとより、ボスニア紛争におけるように、それが殺人に至るものでなくとも糾弾されることになる。

 もちろん違法行為は糾弾されるべきものであろうが、その影に合法的とされていた戦争を見落としてはならないであろう。正当防衛であれ、遵法殺戮であれ、何ゆえに戦争が正当化できるのであろうか。戦争は単なるゲームではないし、合法化された競技でもない。戦時下の最前線で、つまり殺すか殺されるかという状況下で現実に行われたことを検証しつつ、講義では以下の予定で、戦争そのものの認識を問い直してみたい。

 

 (1)5月31日:戦争の実体について

     cf. 岩川 隆、『孤島の土となるとも──BC 級戦犯裁判』、講談社、1995

 (2)6月7日 :戦争責任について

     cf. アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会、
                『戦争責任──過去から未来へ』、緑風出版、1998

 

【平成12年度総合科目講義要綱:東西文化の諸相(戦争と平和)より】