以下のテクストは、

『テクスト理論の展開とテクストの諸相』
(1994年度 教育研究学内特別経費 研究報告書)
岩手大学人文社会科学部 総合研究委員会 編 1995年3月 発行

からの抜粋(pp. 27-38)です。

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テクスト理論とその展開


後  藤  尚  人


はじめに

 1960年代後半からJ・クリステヴァを中心に知的世界を席巻したテクスト理論は、四半世紀が過ぎた現在、誰もがあらゆる事象をテクストとみなす潮流は引けたものの、当然のこととして誰もが「テクスト」を気軽に、無反省的に、多用する土壌を生み出している。もともとテクスト理論など関知しない輩は論外とするにせよ、大方の了解事項としてこの用語が通用してしまうのも、その意味するところがすでに共有財産として認知されているならばいざ知らず、ただ耳慣れた言葉になってしまったという理由によるならば、事態は深刻である。
 テクスト理論によって志向されるテクストを喚起しうる対象はもともと多種多様であるため、「テクスト」が多義的に用いられるのは理にかなっているという説も聞こえてこよう。しかしながらテクスト理論において、テクストの概念それ自体はなんら多義的ではない。この語法が多用されるとすれば、それは分析対象の拡張や理論の適応性に由来しており、語義の浮遊性によるものでも、イメージの安易な増殖性によるものでもありえない。一昔前なら誰もが「エクリチュール」と呼んでいた概念を、「テクスト」と言い換えたりはできないのである。
 とはいえすべての《テクスト》がテクスト理論に依拠する必然性を持つわけではないというのも正論である。ことばは移り変わるもので、 ラテン語の textus から派生したフランス語の « texte » に様々な用法があることは、辞書を繙くまでもなく明らかであろう。ましてそれらがテクスト理論で規定された「テクスト」の概念に先行する用法であるなら、「テクスト」をテクスト理論に縛りつける方が偏執的とも言える。
 では、各自の歴史性を主張する《テクスト》の諸用法が健全であり、用語の使用者がその意味を十分ふまえているなら、憂慮すべき事態とは、ディレッタントが用いる疑似「テクスト」の氾濫がもたらすテクスト理論の通俗化だけであろうか。テクスト論者間において混乱は見あたらないのであろうか。「思


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想・概念の歴史においても、その衰退と刷新、解任と復権がある」(1) ため、テクスト理論の流行に乗じて以前の《テクスト》が蘇ったというのであろうか。
 小論では、このような疑問・観点から、テクスト理論を中心に「テクスト」の概念を再考し、テクスト理論がもたらしたもの、すなわちテクスト理論の展開と展望を検証することで、今日の「テクスト」をとりまく状況を把握し直してみたい。


I テクストの諸用法

 テクスト理論における「テクスト」概念が、先行する用法とはかけ離れたものであることを再確認するためにも、まず通史的に « texte » の用法を一瞥しておこう。

 『フランス語歴史辞典』の « texte » の項目(2) には概ね以下のような説明がある。

 (1) 語源はラテン語の動詞 texere の受動相完了分詞の名詞形 textus(織物、絡み合い)で、textus はローマ帝政時代に「文面」や「物語」などをも意味し、その後、教会内で聖書解釈における「神の言葉」、9世紀頃には「福音(書)」そのものを示していた。
 (2) « texte » は中世以来、18世紀初頭においても、教会用語として「福音を含む書物」の意味で使われていた。13世紀頃には注釈に対する「聖書の引用部・本文」を表す用法が生まれ、また、教会での説教の冒頭に引用される聖書の一部分がその説教の主題となったことから、「主題・テーマ」などの意味も加わっていた。
 (3) 17世紀には教会外での用法が顕著になり、« texte » は「書物の引用部・原文」として文学作品と結びつく。「抜粋」や「断章」などを表す他、印刷業界では「活字」の意味をも担っていた。
 (4) 19世紀になると、« texte » は文学作品自体を意味し始める。復元されるべき「原典」や、「著作」と同等に扱われたり、またシャンソンの「歌詞」としても用いられる。

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 (1) Cf. Groupe μ, Rhétorique générale (1970), coll. ‹ Points ›, Seuil, 1982, p.8.
 (2) 
Dictionnaire historique de la langue française, Robert, 1992, t.2, p.2112. この辞書に主な用法は網羅されているため、他の辞書には言及しない。

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  (5) 20世紀になって用法はさらに拡大されるが、一般に « texte » は著作や印刷物に結びつけられている。当初フランス言語学の分野ではさほど用いられていなかったものの、ドイツ系のテキスト言語学(3) からの影響なども受け、記号論においては重要な概念となっている。

 上記第(1)項は語源であり、また第(5)項の記号論への示唆はすでにテクスト理論をふまえた記述であるため、それらを除外したものがテクスト理論以前の「テクスト」の語法となる。
 これらの「テクスト」の共通点をあえて言えば、テクストが《書かれたもの》という指示対象 (référant) を持つことであろう。もっとも第(2)項の「主題・テーマ」については、« revenir à son texte »(本題に戻る)という使い方では書かれたものとの関係は捉えがたい(4)。しかし « le texte d'une dissertation »(小論文のテーマ)であれば、その「テーマ (texte) 」は題材として選別された「抜粋(テクスト)」それ自体を示していることになり、両者の関係性は明らかである。また、第(3)項の「活字」については業界用語なので例外としても支障はないものの、それもまた書かれたものに関連することには違いない。
 さらに別の角度から見れば、「テクスト」の指示対象は言語外現実として常に・すでに存在しうるものである点があげられる。名辞記号とその指示対象との関わりは一筋縄ではいかないが、ここでの比重は、指示対象が「テクスト」と命名されたがゆえに生じたはずの新たな意味・概念よりも、それを「テクスト」と呼ぶことで広められた « texte » の用法の外延に置かれていると言える(5)。それゆえテクスト理論以前の「テクスト」の歴史とは « texte » と見なされる指示対象獲得の歴史であり、その数は用語の許容範囲に比例する反面、特定の指示対象にそれまでにも増して概念的広がりと深さを与えることはない。

 このように現前する指示対象を持つ「テクスト」の用法は比較的単純である

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 (3) 例えばヴァインリッヒは、「テキストはコミュニケーションの二つの明白な断絶の間にある言語記号の有意的連続である」(Harald Weinrich, Le temps [1964], coll. ‹ Poétique ›, Seuil, 1973, p.13) と規定している。 Cf. aussi, H. W., Grammaire textuelle du français, Didier, 1989, p.24.
 (4) リトレにはルソーの『エミール』から次のような用例が記載されている。« On eût dit que la nature étalait à nos yeux toute sa magnificence, pour en offrir le texte à nos entretiens. [J. J. Rouss. Em. IV] » (Poul-Emile Littré, Dictionnaire de la langue française [1863-1872], Encyclopaedia Britanica, 1987, t.6, p.6293.)
 (5) もっとも、シニフィアンを見出し語とする一般の辞書は元来この傾向を持っている。単なる類語辞典ではなく、概念の母型をもとに意味の広がりを歴史的に記述した事(辞)典はあるのだろうか。

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から、使用時には前後関係から意味内容(ここでは上記の通り容易に類義語で置き換えできる)の特定が可能で、このレベルにおいて「テクスト」という用語が多用されたとしても、それだけでコミュニケーションに重大な障害をきたすことはないものと思われる。たとえ「抜粋」なのか「作品」全体を示しているのか相手の真意が読みとれない場合があるにせよ、量的尺度の問題は相互理解の境界を大きく逸脱しないはずである。


II テクスト理論

 ここでいうテクスト理論とはJ・クリステヴァが提唱したテクスト概念の総体であり、『詩的言語の革命』(1974)を頂点にして、1966年頃から1975年頃までに執筆された著作(6) のうちに読みとれる理論のことである。小論では膨大な知の遺産を継承・発展させたこの理論の全貌を明らかにすることなど望む余地もないが、少なくともそこで構想された「テクスト」が先に見たものとは根源的に異質であることは示し得ると思う。

 クリステヴァはまず、「直接的情報をめざす伝達的パロールを、それに先行したり共時的であるさまざまなタイプの言表と関連づけることにより、言語秩序を再編する超言語的装置 (appareil translinguistique) 」としてテクストを規定し、「テクストはしたがって生産性 (productivité) である」と言う。つまり、(1) テクストとテクストが身を置く言語との関係は再編的 (redistributif : destructivo-constructif) で、テクストには言語学的というより論理学的カテゴリーを通して接近することができ、(2) テクストは諸テクストの置換 (permutation)、テクスト相関性 (intertextualité) であって、その空間では他のテクストから取り込まれたいくつもの言表が交差、中和されるというわけである [cf. T 12 ; S 113](7)
 このテクスト概念が特異なのは一目瞭然であろう。「生産性」や「再編的」、「テクスト相関性」という用語に着目しただけでも、先に見たテクスト理論以前のテクスト把握とは異質なことがわかる。以前のテクストの定義はお

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 (6) 出版年とは必ずしも一致しないが、 Julia Kristeva のテクスト理論に関する著作を執筆順に記す。
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Le texte du roman (1967), coll. ‹ Approaches to semiotics ›, Mouton, 1970.[Tと略記]
 *
Σημηιοτικη - Recherches pour une sémanalyse, coll. ‹ Tel Quel ›, Seuil, 1969.[S と略記]
 *
La révolution du langage poétique, coll. ‹ Tel Quel ›, Seuil, 1974.[R と略記]
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Polylogue, coll. ‹ Tel Quel ›, Seuil, 1977.[P と略記]
 (7) 略記号の後に続く数字はページを表す。

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おむね形態論的であったのに対し、クリステヴァの概念ではテクストの性質が強調されている。この規定法によれば、テクストは常に・すでに存在する実質的指示対象にあてがわれるラベルとしては機能しない。テクストには形状も量的概念もないのであるから、具体的な断片をさして「これがテクストだ」とは言えなくなる。テクストには外界に指示対象がなく、その歴史には獲得されるものがない。テクストが志向するのはテクスト自身であり、性質論的に規定されるテクストの概念からは、「これをテクストの観点から見れば」とするのが妥当であろう。「テクストとしての〜」という表現が常用される(8) 所以である。
 一方で、獲得すべき指示対象を持たず、それゆえ用語法を拡張しないとしても、テクストは上記規定に記されているように、言語秩序を破壊・構築する生産性を持っている。結論を先取りして単純化すれば、この生産性がもたらすものは詩的言語の実践による社会秩序の変革と革命になるであろう [cf. R 79]。その道程をクリステヴァは、とりわけ『詩的言語の革命』の中で、記号論や精神分析学はもとよりあらゆる科学分野を横断しつつ克明に論じている。詳細は原典に委ねるとして、われわれとしてはテクストの生産性をテクスト(理論)が孕む概念自体の生産性の観点からたどることにしたい。

 上記テクストの規定はテクスト理論におけるテクスト概念形成の始まりにしか過ぎず、そこで「テクスト」が言い尽くされたわけではない。ただしテクスト相関性についてはすでに言及されており、その「引用のモザイク」に代表される側面(9) が幅広く受け入れられ、多くの言論を《生産》させたのは周知の通りであるが、ロジックを通して近づくことができるとされたもう一つの側面、テクストと言語との関係については、詩的言語解明の過程と相俟ってテクスト理論の大がかりな構築、すなわち「テクスト」の再編がこれを機に開始されることになる。
 ところでクリステヴァのテクスト理論をその著作から図式的に二分すれば、初期の『小説のテクスト』[T] 及び『セメイオティケ』[S] と、完成期(10) の『詩的言語の革命』[R] 及び『ポリローグ』[P] とに大別できよう。初期段階ではテ

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 (8) Cf.「テクストとして見ると、小説は記号論的実践であって…」[T 13 ; S 114]
 (9) Cf. S 145-146 ;
Mikhail Bakhtine, La poéique de Dostoievski, trad. par I. Kolitcheff, coll. ‹ Pierres Vives ›, Seuil, 1970, pp.238sq. この用法が次第に引用を含む文章や、その源泉探しの様相を帯びるにつれて、クリステヴァが注意を喚起した [cf. R 59-60] のは知られるとおり。
 (10) クリステヴァは現在も活発な執筆活動を続けているので、この表現には異論もあろう。テクスト理論関係の仕事自体が彼女の著作活動からすれば「前期」と言えるのかもしれないが、ここではテクスト理論関係の仕事に限定し、その中に区別を設ける必要上、このように表現する。

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クスト概念の措定と構成、その知的体系の枠組みの配置がなされており、テクストはさらに、 (a) 言語(学)的現象、 印刷されたテクスト、意味づけられた構造 (structure signifiée) であるところの「フェノ‐テクスト (phéno-texte) 」と、(b) フェノ‐テクストを生成する作用、意味する生産性 (productivité signifiante) であるところの「ジェノ‐テクスト (géno-texte) 」とに細分(11) される。 そしてフェノ‐テクストが関わる従来の意味作用 (signification) を扱う記号論 (sémiotique) に対し、ジェノ‐テクストによってもたらされる意味生成 (signifiance) の領域を覆う体系として提唱されるのが「記号分析学 (sémanalyse)」である。
 この記号分析学の名のもとにテクスト(理論)の導入を主眼とした初期段階においては、« productivité » であれ « engendrement » であれ、テクストの生産性が強調されている。テクストは意味する実践 (pratique signifiante) として意味を生成するわけである。ところがこの段階ではこうした理論上の諸関係は命名されているものの、意味生成のしくみ自体の具体的論証はなされていない。どのようにして意味が生成されるのかという過程そのものへの言及は完成期まで待たねばならない。

 言語学上の主語 (sujet) を精神分析学の主体 (sujet) モデルと関連づけつつ意味生成のメカニズムを説明した完成期において、強調される用語は初期の「テクスト・生産性」から「意味生成」を経て「意味生成の過程 (procès de la signifiance)」へと変わっている。こうした移行は初期テクスト概念の延長線上にその欠落部を補完するものとして必然的であったと思われる。というのも初期のテクスト概念はテクストの性質を言語現象面から規定したものでしかなく、生産性をもたらす原動力の説明はなされていないため、意味生成の過程及びその力動性を解明することによってようやく「テクスト」の概念が完結するからである。したがって初期のテクスト規定のみに依拠した《テクスト理論》の応用は危険であるし、内実の伴わない表層規定に基づく議論を展開させたところでその結末は不毛であろう。
 完成期になると意味生成の過程は、二つの様態、すなわち欲動の渦巻く「セミオティック (le sémiotique) 」と、 主体が支配する「サンボリック (le symbolique)」との弁証法を通して説明される。セミオティックとは理論的にはシンボル化 ( = サンボリック) に先立ち、 実践面においてはサンボリックに内在し、アナログかつデジタル、離散的でありかつ配置されているコーラ (χωρα : 場所)で

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 (11) Cf. S 280sq. なおこの概念と生成文法との関係は、T 69-73 においては performance = phéno-texte ; compétence = géno-texte とされていたが、S 281 になるとチョムスキーの深層構造は「線状的文章構造 (sujet - prédicat) に先立つ構造化の諸段階にまで遡るものではない」として géno-texte との差異を強調している。

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あるという [cf. R 23, 35, 65, 67]。一方その対極に位置するサンボリックは、言語のうちにあっては記号の次元に属し、統辞及び言語カテゴリーの総体と見なされ、シンボル的秩序、すなわちラカンのいう象徴界に相当する [cf. P 14 ; R 29, 68]。そして両者間の境域に主体及び意味作用の措定 (position) を生む断絶として機能するのが「定立相 (phase théthique) 」であり、 それはイマーゴの措定、他者の場としてのセミオティックな能動性の措定、去勢、さらに、鏡像段階に始まり、男根期を経て思春期におけるエディプスの再活動で完成するものとして必然的なものである [cf. R 41, 46, 61-62]。
 定立された主体にとって、主体産出の場であるコーラ・セミオティックは己の否定の場であるため、主体の統一はそれを生む負荷と鬱積の過程に屈してしまう。 セミオティックのこうした産出のプロセスは「否定性 (négativité) 」と呼ばれ、 意味生成の過程は定立的否定性とも考えられる [cf. R 27-28, 54]。 また、定立を生み出す運動の論理的機能作用である否定性は意味主体におさまらない過程の在処を示しており、「否定性」が自然及び社会の客観的闘争の諸法則の結合と過程の起源を一元的主体の論理的意識の中に置くことになってしまう場合には、「棄却 (rejet)」とも呼ばれている [cf. R 101, 110]。
 この否定性・棄却ゆえにセミオティックは絶えずサンボリックを脅かし続ける。その根源には欲動の二項性 (binôme pulsionnel) の閉じることのないリズムが宿り、セミオティックが定立を引き裂き侵犯することによる意味実践の変容が《創造》を生み、侵犯の否定性によって定立を砕き潰しながらも、定立を手放さないのが《芸術》の本質であるという [cf. R 62, 68, 94]。 もはや主体は意味生成の過程でしかなく、姿を現すのは意味を生む実践として、つまり主体が意味生成という複合的行程を踏破し、意味生成を体系として閉ざすことなくその過程の無限性を受け入れる限りにおいてでしかない [cf. R 95, 98, 188]。そして、こうした過程を遂行しつつ、否定のシンボルによって確立され、統一体を砕いてもろもろの定立を措定・移動させる過程にする実践こそが「テクスト」なのである [cf. R 98, 150, 183]。

 以上、粗雑ながらもクリステヴァのテクスト理論の輪郭を再確認してみたが、このきわめて《生産的》な理論の形成過程を単純化して解釈すれば、その行程は初期に提出されたテクスト・生産性の問題を完成期に解明しようとしたものと考えられる。解明の正否はさておき、理論の形成過程から言えるのはテクスト理論が《生産性》を持つとはいえ自己言及的であること、そして完成期における生産性・意味生成の解明度が高ければ高いほどこの理論は自己完結的なものになるということである。いずれにせよ、テクスト理論の形成過程は閉じている。このことは理論体系の一貫性を示すと同時に、そこで扱われる概念


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の多義的な解釈を拒むことを意味している。ただしそれはあらゆる強固な理論に共通する事象であって、たとえ問われている「テクスト」自体が力動的かつ開かれた概念だとしても理論上矛盾するわけではない。理論体系からみれば「テクスト」の規定法は厳密であり、規定された概念から抽象される指示対象としての「テクスト」が流動的なだけである。
 この厳密に規定されかつ生成し続ける「テクスト」は、既に述べたように外界に指示対象を持っていない。「テクスト」はあくまで理論上の概念で、指示対象はその概念そのものになる。したがってこの理論を《都市》に応用した場合、都市はテクストの指示対象にはなりえないがゆえに、生産性であれ意味生成であれ問われることになるのはテクスト理論で規定された諸概念となり、ほとんどがそれを《都市》の構成要素に置き換えたものに過ぎなくなるであろう。また、テクストとして都市を《読む》場合においても、テクスト理論によれば《読む》ことは解読という語彙・統辞・意味論的操作を放棄して生産の行程を再び行う (refaire) ことを意味する [cf. R 98] ため、都市の生産行程を再現できない以上、なし得るのは都市を口実にしつつテクストを生産することだけであろう。そしてそれもまたほとんどがテクスト理論の追認に終始してしまう。テクスト理論は円環をなし、生産性・意味生成に対する答えはすでに提出されているのであるから。


III テクスト理論の展開

 これまで検証してきたようにテクスト理論には、「テクスト」としての対象規定の不可能性が内包されている。テクスト理論が成立した段階で何らかの対象にテクストを投影しても「テクスト」以外に見えてくるものはない。このような閉塞状況の下、テクスト理論はどのように展開し、受け入れられて来たのであろうか。

 まず初期の段階において、すなわちテクスト相関性を扱った著作で代表されるのは、知られるとおりテクスト・織物としての重層性をコードの観点から分析しつつ《作品》の解体を試みたバルトの『S/Z』であろう(12)。バルトは古典的な「読み得るテクスト」に対して「書き得るテクスト (texte scriptible) 」を対

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 (12) Cf. Roland Barthes, S/Z, coll. ‹ Tel Quel ›, Seuil, 1970.  またバルトの「テクスト理論」( « Théorie du texte », in Encyclopaedia Universalis, t.15, E.U.F.S.A., 1973, pp.1013-1017) もよく知られているが、これも内容的にはクリステヴァの初期段階のテクスト理論をまとめたものである。

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置し、フェノ‐テクスト(『サラジーヌ』)について理論的にではなくともジェノ‐テクストを実践したと評価できる。一方アリヴェは『ジャリの言語』の中でテクスト相関性を強調してはいるものの、 « intertexte » を「所与のテクスト内で関連する諸テクストの総体」と規定し直す(13) など、彼の考え方及びその手法はクリステヴァのテクスト理論と合致するものではない。もっとも応用というものにはある程度のズレが生じるのも当然であるが、その度合いも(時代は下るとはいえ)「テクスト」の用語法が解禁になり、テクストに対する信仰の自由が保証されたかのごとく新種(14) をまき散らすジュネットに至っては、もはやテクスト理論の残滓さえ残らなくなってしまう。
 では完成期以降、事態がどのように進展してきたのかと言えば、記号分析学の分野に特筆すべき事例は見あたらないというのが実状ではないだろうか。クリステヴァのテクスト理論をその理論体系の骨子は残したまま応用するのはきわめて困難(難解に加えて自己回帰的)であるため、『詩的言語の革命』第2部以下のクリステヴァ自身による分析以上のものは現れていないようである。ただしだからといって、テクスト理論はエピゴーネンしか生まなかったと言おうとしているわけではない。テクスト理論は、良きにしろ悪しきにしろ、各地に根を延ばしている「生成批評」にその発祥の根拠を与えたのであるから

 「生成批評 (critique génétique)」とは、 その名称からもうかがえるとおり絶えず生成してやまない「テクスト」から着想を得て、ベルマン‐ノエルらが概念化した批評・研究方法であるが、現在の動向を見る限りその手法は隣接諸科学の成果を横断的に取り入れつつ理論化されたクリステヴァのテクスト理論の系列に属すものとは思えない。もともと出発点からこの批評がテクスト理論とどれほど重なっていたのかも疑わしいとはいえ、今日この名称の下に見出され

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 (13) Michel Arrivé, Les langages de Jarry, coll. ‹ Thèses et Travaux ›, Klincksieck, 1972, p.28. また「テクスト相関性」については、「ある文学テクストの内部に現れるテクスト相関的関係の総体」(ibid., p.27) と規定されている。
 (14) 個々のテクストが属すところの一般的・超越的カテゴリーの総体である「原テクスト
(architexte)」を詩学の対象に据えようとするジュネットは、原テクスト性をさらに拡大した「超テクスト性 (transtextualité)」の5つのタイプとして、(1) 2つないしいくつかのテクスト間の共存 (coprésence) 関係であるところの「テクスト相関性」、(2) サブタイトル、序文、注などといったパラテクストとテクストとの関係である「パラテクスト性 (paratextualité)」、(3) あるテクストとそのテクストが(必ずしも引用することなく)語っているテクストとを結ぶ関係である「メタテクスト性 (métatextualité)」、(4) ある高位テクスト (hypertexte) をそれに先行する下位テクスト (hypotexte) と結びつけるあらゆる関係である「高位テクスト性 (hyertexualité) 」、 (5) 上記の原テクストが孕む「原テクスト性 (architextualité)」とを分類している。 Cf. Gérard Genette, Introduction a` l'architexte, coll. ‹ Poétique ›, Seuil, 1979, p.90 ; Palimpsestes, coll. ‹ Poétique ›, Seuil, 1982, pp.7-14.

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る仕事は、思想においてむしろテクスト理論とは対極に位置づけられる実証的労作に近い。「テクスト」から生まれたはずの生成批評がなにゆえ実証主義的だと見なされるのか、その理由を以下に述べる。

 生成批評の立場は、書物として出版された《テクスト》を、たとえそれが決定校と呼ばれるものであるにせよ生成し続けるテクストの一形態と見なすというもので、この考え方にテクスト理論の影響を垣間見るのは容易であろう。当初、ベルマン‐ノエルが構想していた生成批評は、そうしたテクストの生成過程を決定稿以前の「前‐テクスト (avant-texte) 」を通して読みとろうとしたものであって、「前‐テクスト」は批評家の読解のうちにしか存在せず、作家の残された手稿や下書きなどとは明瞭に区別されていた(15)。 草稿 (brouillons) からは完成された作品の手前を意味する未完性が連想されるのに対し、「出版されたテクスト以前にあるのもすでに何らかのテクスト (du texte) であり、すでにテクスト (le texte) だ」(16) というのである。 ただし、その前‐テクストも「テクスト」に代わる価値を持つわけではなく、前‐テクストは「テクスト」からすれば幼年期のテクストと解され、成人である「テクスト」をよりよく知るために前‐テクストの分析が有効になるとされる。それは精神状態を過去の出来事から探ろうとする分析医の態度と通底しており、精神分析が対話を通した分析医に対する患者の協力 (associations) なしでは成り立たないように、テクストを分析する者にとって欠如しているテクスト側からのことばを見出す手段として前‐テクストが役立つ、とベルマン‐ノエルは主張する(17)
 一方、もう一人の有力な推進者であるドゥブレ・ジュネットの生成批評は、精神分析へと傾斜してゆくベルマン‐ノエルの生成批評とは違い、《詩学的》側面を持っている。彼女は手稿等への生成批評の適用を目指しており、手稿 (manuscrit)をテクストの外在研究と内在研究を繋ぐものと位置づける。そして、源泉研究のみならず手稿内への作品外の予備的要素の刻まれ方をも扱うことになる「外生的生成過程 (exogenèse) 」の分析に対し、 作家の視点に注目するというよりは、保存されたシニフィアンを分析・構造化しつつ、作家に固有のシステムを記述することで、「内生的生成過程 (endogenèse) 」を明らかにし

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 (15) Cf. Jean Bellemin-Noël, « Reproduire le manuscrit, présenter les brouillions, établir un avant-texte », in Littérature, no 28, Larousse, 1977, pp.6-9.
 (16) Cf.
Jean Bellemin-Noël, « Avant-texte et lecture psychanalytique », in Avant-texte, Texte, Après-texte (1978), C.N.R.S. et Akadémiai Kiadó, 1982, p.162.
 (17) Cf.
ibid., p.165. この考えを推し進め、『テクストの無意識へ』(Vers l'inconscient du texte, coll. ‹ Écriture ›, P.U.F., 1979) 以降、彼の一連の仕事は《テクストの精神分析》を実践したものとなっている。

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ようとする(18)。このように、具体的な手稿から始められるドゥブレ・ジュネットの「生成研究 (étude génétique) 」の手法は、 現存する手稿から区別された前‐テクストを念頭に置くベルマン‐ノエルの生成批評と一線を画していると同時に、決定稿としてのテクストの研究にも対置する形で、生成過程の研究に開かれた構造、可能な限りの多様性を見出そうとするもの(19) であった。
 しかしながらそのような意図も、この研究方法が実証主義の《テキスト・クリティック》に取り込まれてゆくうえでの障害にはならなかったようである。生成過程研究 (génétique) としての手稿研究と実証主義的手稿研究との間には僅か数歩の距離しかない。両者の到達目標は多様性と唯一絶対性という相容れない地平にあるにもかかわらず、目標到達に向けた過程での作業は共に埋もれた原稿の掘り返しに始まる古典的な手順を踏むため、下火になったとはいえ実証主義的研究方法を是とする学究たちが、経営理念を変える必要もなく《生成批評》の看板を掲げて新装開店し始めたのである。あちらこちらで大義名分をふりかざしつつ遺産の発掘がにぎやかに行われている。生成批評と銘打てばどれも最新の業績となる。まことに生成批評とは救世主だったのである。

 こうして最も斬新的とされたテクスト理論が最も古典的な研究方法に結びつく。それは自己回帰的で応用の困難なはずのテクスト理論にすれば、自らを完結させることなく生きながらえることに通じるのかもしれないし、表紙を替えた実証主義にとっても起死回生の妙薬であったことであろう。ただし、テクスト理論が練り上げられる際に用いられた数々の思想は、すでに行き先を見失っている。


結 句

 以上のような状況の下、今日のわれわれにとって「テクスト」を語るということは容易ではない。テクスト理論以前と以後とで「テクスト」への認識がまったく異なることは言うまでもないが、「テクスト」が生成批評へ取り入れられ、かつ用語法がテクスト理論の呪縛から解き放たれた現在、《テクスト》が意味するものは混沌の渦中にある。けれどもそれが生成し続けるテクスト本

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 (18) Cf. Raymonde Debray Genette, « Génétique et poétique : esquisse de méthode », in Littérature, no 28, ibid., pp.19-20, 24, 27 ; repris dans Essais de critique génétique, éd. de Louis Hay, coll. ‹ Textes et manuscrits ›, Flammarion, 1979, pp.24, 30, 33 ; aussi in R. Debray Genette, Métamorphoses du récit, coll. ‹ Poétique ›, Seuil, 1988, pp.18, 24-25, 29.
 (19) Cf.
ibid., respectivement, p.30 ; p.37 ; p.33.

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来のありようであるなら、われわれはまだテクスト理論の影響下にいるのかもしれない。少なくとも《作品》から区別された《テクスト》は生成過程の途上にあって、始まりも終わりも知らずに続いてゆく。そうしたテクストに概念の限定化は似合わないはずである。
 ただしテクスト理論そのものは閉じており、そこで規定された「テクスト」を研究対象に重ね合わせた途端に「テクスト」が惰性体になってしまうことは忘れてはならないでろう。なるほど、抽象度が高く現存する指示対象を持ち得ないテクスト理論を実用レベルに適用させ、誠実な生成批評は構造主義が切り出した作品の静態モデルを時間軸の導入と共に立体的・力動的に捉え直した「テクスト」として描き出そうと努めてはいる。ところがいかなるテクストも分析のメスを入れられた所から活力を失い死に体となって硬直してしまう。この悪循環を断ち切るにはテクストを対象とすることをやめ、「テクスト」になる以外に道はない。
 もっとも「テクストの実践」ならすでに言い古されている。テクストが生産性であるからにはテクストを生産してみせねばならぬというわけである。しかしながら、生産性と生産品は同じではないし、テクストを生産しただけでテクストを語りつくせはしない。そのうえ「テクストを生産する」という発想自体がテクストを物化した惰性テクスト論のそしりを免れ得ないであろう。それゆえわれわれの時代においては、「テクストの実践」をテクスト生産性のメカニズムの探究と解釈し直す他なく、そのためにはテクスト理論を引き継ぎつつも新たなテクスト理論を生み出す必要があろう。円環の糸はわれわれの手でほぐしてやらねばならない。















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