平成13年度 前期

文化記号論 I(概要)

 

【第1回:4月13日】 

 

  * 講義の性格&スケジュールの変更について

 講義の全体像はシラバスに記載してあるとおりで、「文化記号論」という科目名を、いわゆる記号論の一分野としての《文化記号論》とは解せず、広義(文化システムコースで扱う記号論くらいの意味)に理解しておきたい。
 前期は総論として《記号論》を論じ、後期に各論として《〜記号論》を扱う予定。
 なお前記のスケジュールについて、シラバスには

      第3〜4週:記号論の源流 I:ソシュール
      第5〜6週:記号論の源流 II:パース
      第7〜9週:ソシュール系記号論の展開
      第10〜12週:パース系記号論の展開

と予告しておいたが、ソシュール関連の内容(第3〜4、7〜8週)と、パース関連の内容(第3〜4、7〜8週)はひとまとめにし、

      第3〜4週:記号論の源流 I:ソシュール
      第5〜6週:ソシュール系記号論の展開
      第7〜9週:記号論の源流 II:パース
      第10〜12週:パース系記号論の展開

としたい。

 

  * 記号論/学の成り立ちとその概略

 記号論という学問(領域)は比較的新しい分野である。
 「記号」そのものについての考察は古代から行われてきたが、学問として名づけられたのは、ジョン・ロックが『人間知性論 (人間悟性論)』( John Locke, An Essay Concerning Human Inderstanding, 1689)の巻末で学問を三分割(Φυσικη
, or natural philosopy / Πρατικη, or ethics / Σημειωτικη, or the doctrine of signs)した際に命名したのが最初と言われている。
 その後、19世紀末から20世紀初頭にかけ、言語学の側からソシュール(Ferdinand de Saussure)が、また論理学(プラグマティズム)の側からパース(Charles Sanders Peirce)が、互いに没交渉ながら、相次いで記号学/論を提唱し、両者が今日の記号論の源流とされる。
 もっとも、記号論が世界的に注目され始めたのは1960年代になってからで、日本において記号論が学問的に認知されるようになったのは1980年代のことである。

 

  * 記号論とは何か?

1)記号論で扱われる「記号」とは何か?

 記号をいくつか挙げてみよう。「交通標識」や「ト音記号」などはすぐに思いつくであろう。それらは記号論を引き合いに出すまでもなく、一般に記号として了解されている。もちろん教室内にある「禁煙」の表示も同類である。
 では一般に「記号」だど言われるもの以外に、記号論ではどのようなものを「記号」と見做すのであろうか?
 言語?これは極めて洗練された記号体系である。(詳しくはソシュールの解説の折りに...)
 他にも記号はいくらでも見つかるはず。ちなみに教室内に「記号」はあるのか?
 時計?どのような意味で記号なのか?──時間を表す。なるほど。でも、いわゆる「道具」と「記号」は同じだろうか?
 日常の道具として使うのではなく、たとえば、絵画のなかに意味ありげに描かれた時計は、規則性や几帳面さを表す記号になるだろう。【ダリが描くデフォルメされた時計(cf. Salvador Dalí, La Désintégration de la Persistance de la mémoire, 1952-54)は逆に、時間という秩序の崩壊を意味する記号といえよう】
 椅子?なぜ記号なのか?一般に椅子は「家具」と呼ばれているが...
 もちろん椅子も記号になり得る。たとえば玉座としての椅子は権力の象徴としての記号である。
 と、くれば、ハトも(《ノアの洪水》の終結を知らせた)平和の象徴(≒ 記号)だし、ペンも言論による《力》を表す記号である。
 このような象徴だけでなく、われわれが身に纏っている衣服も記号になり得る。普段は意識しなくとも、ひとたびTPOから外れた衣装は何かを意味するし、ノーネクタイは格式・形式を排除した《気楽さ》の記号として機能する。
 要するに、われわれの身の回りにあるものは何でも記号になってしまうのである。
 とはいえ、たんなるモノと記号とはどこがどう違うのか?

  ※ 記号とはそれが何か他のものを意味する限りにおいて記号となる

 したがって、記号が成り立つには、記号とされるモノと、それで表される他の何かが必要である。

 

2)記号論とは何か?

 

 記号を扱うのが記号論であるには違いないが、では記号である標識や椅子やネクタイなどを研究するのが記号論なのだろうか?
 モノそのものが記号なのではなく、モノとそれによって指示され、意味される対象との関係が記号を成立させるのであるから、その両者の関係が記号論においては重要なのであり、記号論が扱うのはモノそれ自体ではない。

  ※ 記号論が問題にするのは記号を通して透けて見える関係性である。

 われわれの世界は記号に満ちている。それは単一的な具象物であったり、抽象的な概念であったり、言語であったり、複合的な表出(たとえば複数の単語からなる文章や、視覚や聴覚を刺激する映画など)であったり、われわれの経験(時間的空間的体験)さえも記号といえるだろう。
 こうした記号化の作用、それは人間の構想力(と解釈力)に関わる根源的な問題であり、それらを問い直すのが記号論である。
 記号論を導入することによって、ジュールダン氏(モリエールの『町人貴族』の主人公)が自分が話してきた言葉が散文であったことに驚いたように、これまで見えていなかった世界が見えるようになり、世界観そのものが変わるであろう。

 

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【参照&紹介文献】

  • ジョン・デイリー、『記号学の基礎理論』、大熊昭信 訳、ウニベルシタス、法政大学出版局、1998