平成13年度 前期

文化記号論 I(概要)

 

【第2回:4月20日】 

 

  ※ 前回のおさらい

  • われわれの身の回りにあるすべてのものが「記号」になりうるが、それは記号が記号以外の何ものかを代理する場合においてである。
    => 記号とは不在の現前である。それゆえ記号を分析することにより、見えてこなかったもの(不在)があらわになる。(実は、不在が何であるかが理解できて初めて記号が成立するのだけれど...)
    => もっぱら自分自身を意味するような特殊な記号(芸術作品など)がないわけではないが、その場合においても何か他のものを意味する記号としての解釈は常に可能。

  • 記号論で重視されるのは記号とりまく関係であり、記号の実体ではない。
     => 記号論は構造を問題にする。

 

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  * 記号論とは何か?(つづき)

 

3)記号論と記号学

 

 「〜学」と「〜論」との違いを日本語の問題として考えるならば、一般的に、確立した体系をなすものが「〜学」で、現在進行形で生まれつつ(確立しつつ)あるようなものを「〜論」と区別する場合が多い。この類推からすれば、「記号学」はすでに形が整った学問だといえるし、「記号論」の方は諸説が乱立しつつもこれからその全容が明らかになるような《学問》といえよう。
 もともとは、ソシュールの流れを汲むヨーロッパ(とりわけフランス)において sémiologie が広く用いられ、パースの系列に属す英米系では semiotic が用いられていた。しかしながら、フランス語圏においても、semiotic の仏訳としての sémiotique と、従来の sémiologie とが競合しはじめ、1969年に「国際記号(論)学会(International Association for Semiotic Studies / Association internationale de Sémiotique)」が発足した際に、ヤコブソンの提言によって《セミオティック (Semiotic / Sémiotique)》が採用されてからは、sémiologie は姿を消し、《セミオティック》に統一されるはずであった。(しかしながら、その後もプリエートやムーナン、学会設立に参加したバルトさえも一貫して sémiologie を使い続けたことは知られるとおりである。)
 日本語訳としては、従来 sémiologie を「記号学」、semiotic を「記号論」と訳し分けていたようであるが、近年、パース系の semiotic を sémiologie より広い概念として優位におく立場から、semiotic(s) を「記号学」と訳すようになり、事態は混乱する。
 われわれとしては、この際、訳語云々ではなく、日本語的感覚から、パースやソシュールらのいわば原理論的部分を「記号学」、その延長線上にあり、今後もさらに外延を広げてゆく部分を「記号論」と了解することにしたい。ただし、あえて「記号学」と限定する場合を除き、通常は「記号論」を用いることにする。

 

4)記号論と意味論

 

 言語学において音韻論や形態論などは比較的早くから研究が進んでいた分野であるけれども、最も遅れてやってきたといわれるのが意味論である。この意味論とは、読んで字の如く《意味》を中心に扱う分野であって、ソシュールのいう記号のシニフィエ(signifié:記号内容:所記)にもっぱら焦点を当てる。そして意味論がさかんに論じられるようになる(1960年代以降)と、記号のもう一つの側面であるシニフィアン(signifiant:記号表現:能記)から、あたかも意味論が分離独立して成立するかの如く思われ、その結果、記号論はシニフィアンのみを扱うもとのとして、シニフィエを扱う意味論とは対峙的に論じられるという錯覚が生じた。
 けれどもソシュール記号学(第3回講義以降に詳しく論じる)において、記号はシニフィアンとシニフィエからなり、両者は表裏一体の関係にあるわけで、たとえシニフィエを中心に論じる分野を「意味論」と呼ぶにせよ、記号論はシニフィアンのみを対象にするのではなく、意味論をも取り込んだところの記号(signe:signifiant/signifié)全体を扱う学問とみなす。

 

5)記号論と言語学

 

 ソシュールは言語学を含む来るべき記号の学問として《記号学》を構想したが、ソシュール自身は言語記号以外の記号について「記号論」を打ち立てたわけではない。その後、言語記号以外の分野で記号論にいち早く挑戦したバルト(cf.『モードの体系』:Roland Barthes, Système de la Mode, Seuil, 1967:分析自体は1957-1963年に行われた)は、自らの経験から、非言語的領域の対象を分析するにしても言語を媒介することなしには行なえないと実感し、記号学はソシュールが提唱したように言語学を内包するのではなく、逆に記号学を含む言語学が必要であろうとした(cf. Communications 4, Seuil, 1964, p.2)。ただし、バルトがいう言語学とは従来の言語学ではなく、trans-linguistique であり、いわば言語学をこえた「超言語学」であるため、「超言語学 > 記号学 > 言語学」という図式が成り立つ。
 そこに「記号論」を介入させれば、超言語学を内包するものが記号論であると言えなくもなさそうであるが、ここでは、バルトのいう「超言語学」こそ「記号論」ではないかという観点から、「記号論 > 記号学 > 言語学」と整理しておこう。

 

6)記号論と構造主義

 

 記号論は構造主義が一世を風靡した後にようやく認知されたとはいえ、ポスト構造主義が記号論なのではない。それぞれの名称が示しているのは、記号論が記号という「領域」であるのに対し、構造主義の方は「方法論」を示している。構造主義は文化人類学や文学研究にとどまらず、様々な分野での分析手法として用いられたわけで、もちろん記号論だけを示すものではない。けれども、記号論について、その領域ではなく、記号論の方法はといえば、基本的に構造主義的である。
 グレマスによれば、構造とは二項の存在と両者間の関係であり(Algirdas Julien Greimas, Sémantique structurale, coll. ‹ Langue et langage ›, Larousse, 1966, p.19)、構造とはすなわち関係の把握でもある。われわれが記号論が問題にするのは関係性であると指摘したのもこうした構造の概念を念頭においてのことである。

 


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