平成13年度 前期

文化記号論 I(概要)

 

【第10回:6月29日】 

 

  ※ 記号論の源流 II:パース(4)

  • パース記号理論のアウトラインを探る最終回。

  • 前回まででパースの記号学の骨子は解説したが、今回はそれらの総まとめとして、記号作用に関わる部分を補足し、加えてパースの記号主義の根幹部分をおさえておきたい。

  • パースの記号理論がソシュールの記号概念と根本的に異なるのは、単に二項か三項かという問題ではなく、(1) パースが描く記号には表意体と対象と解釈項が織り成す三位一体的性格があり、そのうちに次々と記号を生み出すダイナミスムが含まれていること、(2) モデルとして言語記号を考えるソシュールの記号概念は基本的に言語外現実を捨象しているが、パースの記号理論は表意体の対象や解釈項を考慮することで、言語外現実や解釈主体である人間の関わりを前面に押し出している点であろうと思われる。こうした観点からすれば、パース理論の優位性を説く英米系の記号論の主張も理解できる。とはいえ、ソシュールの記号概念にイエルムスレウの理論を取り入れつつ、バルトが展開したデノテーション/メタランガージュ/コノテーションの考え方は、結果としてパースの記号理論の応用にみられる方向性とそれほど大差はない。バルトの慧眼さが脳裏を過る。

  • 資料として、今回も『パース著作集2 記号学』(内田種臣 編訳、勁草書房、1986)から、主に《記号現象》やパースの《記号観》(思想 = 記号、人間 = 記号など)がよく現われている部分を抜粋し、A3で1枚のプリントを配布した。そのプリントを参照しつつ、以下の項目について解説した。

 

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  パース『パース著作集1 現象学』


 D 記号現象

 

表意体の反復可能性[p.134-5]

[5・138](1903-1)  表意体の存在様式で大事なことは、表意体は反復可能だということである。[...]唯一の具体物しか持たず反復のできない表意体は表意体ではなくて、表意されている事実そのものの一部であろう。 … 別の表意体によって規定されている表意体を前者の解釈項と呼んでいる。

二つの対象と三つ以上の解釈項[p.135-6]

[4・536](1905-1c)  記号は対象と解釈項をもっており、解釈項というのは、解釈者という疑似的な心の中で、記号がその心をある情態とか活動とか記号へと規定することによって作り出すものであり、この規定作用が解釈項である。しかし通常二つの対象と三個以上の解釈項があることを指摘することが残っている。つまり、直接的対象つまり、記号自身がそれを表意するとおりの対象で、そのためにその存在が記号によるその表意作用に依存しているような対象を、力動的対象つまり、なんらかの手段でなんとか記号を規定して自分を表意させるようにしている実在から区別する必要がある。解釈項に関しても同様に、第一に直接的解釈項つまり、記号そのものの正しい理解の中で現示され、通常、記号の意味と呼ばれているものとしての解釈項を識別しなければならない。第二に、力動的解釈項つまり、記号が記号として現実に規定している実動的な効果に注意しなければならない。最後に、わたしが暫定的に、最終的解釈項と呼ぶものがある。これは記号が自分自身をその対象と関係づけらているものとして表意しようとする場合のその様式のことである。

情動的解釈項—活動的解釈項—概念の意味[p.138-9]

[5・475](1907-1c) (1906) 知的概念の「意味」(meaning) が何であるかという問題は、記号の解釈項あるいは固有な意味作用の効果 (proper significate effects) の研究によって解決されうるだけである。解釈項には、重要な細分類のできる三個の一般的なクラスがある[...]。記号の第一の固有な意味作用の効果は、記号によって作り出される情態 (feeling) である。[...]私が「情動的解釈項」(emotional interpretant) と呼ぶこれは、認知の情態をはるかにこえたものになることがある。また、これが記号の作り出す固有な意味作用の効果であるという場合もある。たとえば、合奏曲の実演は一つの記号であり、作曲家の音楽的想念を伝えるしまた伝えるものと意図されている。しかし、このような想念の本質は普通、一連の情態の中にあるに過ぎない。記号がこれ以上の固有な意味作用の効果を産み出す場合は、情動的解釈項の媒介によるから、そのような追加の効果は常に努力を含んでいる。それを私は活動的解釈項 (energetic interpretant) と呼ぶ。その努力は銃を置けという命令の場合のように筋肉にかかわるものもあるが、内的世界への働きかけ、つまり心的な努力であることがはるかに普通である。このような努力は知的概念の意味にはなりえない。なぜならこのような努力は単一の行為であるが、知的な概念は一般的な本性を持つものだからである。しかし、これ以上どんな種類の効果がありうるか。

論理的解釈項(概念の意味)—習慣変更[p.139]

[5・476](1907-1c) (1906) このような効果の本性を確かめる前に、それに対する名称を与えていた方が便利だろう。私はそれを論理的解釈項 (logical interpretant) と呼ぶが、この用語が、確かに一般的概念の意味に密接にかかわりを持っているとしてもそれを超えるものにまで及ぶかどうかはまだ決めないでおこう。この種の効果は思考つまり心的記号かもしれないと言うべきか。間違いなく、そうかもしれない。しかしこの記号が知的なものであればこれ自身、論理的解釈項を持たねばならない。そういう訳で、これは概念の最終的な論理的解釈項にはなりえない。

記号作用(セミオーシス)[p.140]

[5・484](1907-1c) (1906) [...](記号作用という用語で私が何を意味させようとしているかを理解することが重要である。力動的作用、理性を欠いた力の作用はすべて物理的にしろ心的にしろ、二つの主体間に生じるかあるいは、とにかく対の間のそのような作用の結果であるのかのいずれかである。しかし私の言う「記号作用」(semiosis) はそうではなくて、記号、記号の対象および記号の解釈項という三個の主体の協働 (coöperation) であるかあるいはそのような協働を含む作用ないし影響のことである。このような三項関係的な影響はどうしても対の間の作用に分解できない。…。)

記号の三項性(指示するもの—意味するもの)[p.144]

[6・344](1908-1e) (1909) 記号は…三項的である。なぜなら記号はある主体を指示し、事実のある形式を意味し、後者を前者に結びつけるからである。

記号の定義[p.147-8]

[8・177](undated-9)  記号というのは、一方でその対象と言われる、自分以外の何ものかによって規定され、他方では現実の、あるいは可能な心を規定して、この解釈する心がその対象によって間接的に規定されるようにするところの、認知可能なものである。そのような心の規定作用を私は記号によって作られた解釈項と名づける。

 


 H 思考・記号・推論

 

思考と記号[p.179]

[5・283](1868-2b) (G1893-6) [...]ところで、記号は三つの関連を持っている。第一に、記号はそれを解釈する思考に対する記号であり、第二に、記号はそのような思考において記号と等価であるものの代わりをする記号であり、第三に、記号は記号をその対象と結びつけるようなある観点あるいは質において、記号である。

私の言語は私の総体である[p.191]

[5・314](1868-2b) (1893-6) 人間が使っている言葉や記号こそ人間自身である。なぜならすべての思考は記号であるということが、生は一連の思考であるということと一緒になって、人間は記号であるということを証明するように、すべての思考は外的な記号であるということは、人間は外的な記号であるということを証明するからである。

人間の証明──整合性──表意[p.191-2]

[5・315](1868-2b) (1893-6) このことを理解するのは困難である。なぜなら、人は自分の意志、動物的有機体を支配する力、あるいは理性を欠いた荒々しい力と自分自身を同一視しようと固執するからである。ところで、有機体は思考の道具に過ぎない。人間の同一性は人間が行い、考えることの整合性にあり、整合性はものごとの知的特性、つまりものごとが何かを表すということ、である。

 


 I 人間は象徴記号である

 

人間は象徴記号である[p.193]

[7・583](1866-2a) (1867) 意識の状態は推論であること、それ故、生は推論の列あるいは思考の列に過ぎないことがすでに分かった。いかなる瞬間にも、人間は思考であり、思考は象徴記号の一種であるから、人間とは何かという問いへの一般的な答えは、人間は象徴記号である、ということになる。もっと明確な答えを見つけるには、人間を他の象徴記号と比較しなければならない。

人間 = 記号(要約)[p.197-8]

[7・591](1866-2a) (1867) 第一、『人間とは何か』はその現在の意味では帰納的問いである。第二、その帰納的説明は現象の一般的表現に過ぎず、仮説を作らない。第三、人間がなんであれ、人間は各瞬間にある。第四、人間が示す唯一の内的表現は各瞬間では、情態、思考、注意である。第五、情態、思考、注意はすべて認知的である。第六、認知は全て一般的であり、直観は存在しない。第七、一般的な表意作用は象徴記号である。第八、象徴記号はどれもその同一性を規定する本質的な内包を持っている。

必然的で真な象徴記号は不死である[p.198]

[7・594](1866-2a) (1867) 証拠のない真理はない、と言われる。現に事実そのもの、つまり、事態は、帰納の原理による一般的事実の象徴記号であり、真な象徴記号はそれが真である限り、解釈項を持っている。そして、それはその解釈項と同一であるから、常に存在する。こういう訳で、必然的で真な象徴記号は不死である。

 

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【参照&紹介文献】

  • 有馬道子、『パースの思想』、岩波書店、2001
  • ポール・コブリー & リッツァ・ジャンス、『記号論』、吉田成行 訳、FOR BEGINNERS、現代書館、2000

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