平成13年度 前期

文化記号論 I(概要)

 

【第6回:5月25日】 

 

  ※ ソシュール系記号論の展開(2)

  • 今回は、前回の補足とバルトによる広告映像の記号分析を取りあげる。

     
  • 資料としては、「映像の修辞学」( in『第三の意味』、沢村浩平 訳、みすず書房、1984)から関連部分を抜粋してA3で1枚のプリントを配布し、パンザニの広告部分は Communications No4 から該当部をB4でカラーコピーしたものを参考資料とした。それらを参照しつつ、以下の項目について解説した。

 

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  バルト「記号学の原理」(1964)

 II:シニフィエとシニフィアン

  2.1.2 言語記号[p.131]

 

*言語を考える上でソシュール以後に付け加えられた重要な理論として、マルチネの「二重分節 (double articulation)」という考え方がある。
 すなわち、人間の言語活動 (langage humain) は、まず有意単位としての monème[記号素]に分節(第一次分節)され、それはさらに弁別単位としての phonème[音素]に分節(第二次分節)される。この特徴は、これまでに記述された全ての言語 (toutes les langues) にみられ、この二重分節のおかげで、言語はわずか数十の弁別的音声生産物だけで成り立ち、極めて経済的に組み立てられている(cf. André Martinet, Éléments de linguistique générale, 1960, coll.‹U prisme›, A. Colin, 1980, pp.13-17.)という。(「南米のスペイン語はわずか二十一個の弁別単位で十万の記号単位を作り出している」[p.132])
【同じ Communications 4号に掲載された Christian Metz の « Le cinéma : langue ou langage ? » が、この二重分節をキーワードに、映画が langage ではあるものの langue ではないと結論づけたことは知られるとおりである。】

  2.1.3 形式と質量[p.132] 

 

*イエルムスレウは記号学が対象とする記号を研究するにあたって重要と思われる区別[記号の各々の面は形式 (forme) と質量 (substance) との二つの相を含む]を導入した。(cf. Louis Hjelmslev, Prolegomena to a Theory of Language (1943), trad. F. J. Whitfiels, U. of Wisconsin Press, 1969.)
 → Sa ≒ 表現:形相と実質 / Sé ≒ 内容:形相と実質
 (1):表現の実質(音声学上の音)
 (2):表現の形相(範列や統治の規則)
 (3):内容の実質(シニフィエがもつ情動、イデオロギー)
 (4):内容の形相(意味論的標識の有無による Sé 間の形相的組織:補足困難)
→ これらの区分は「書かれたモード」のような、Sé が本来属す体系の実質以外のなかで実質化されているような体系を扱う場合に有益

 

  バルト「映像の修辞学」(1964)

 ラテン語の imitari[模倣する]を語源に持つ image[映像]、言いかえれば類似的な表象は、真の記号体系を生み出しうるのか。二重分節を持たない再現でしかない映像は言語に比べれば非常に初歩的な体系でしかないと考えられている反面、意味作用は映像の豊かさを汲みつくすことはできないとも言われている。
 ところで映像が意味の限界であるにせよ、どのようにして意味は映像に至るのか、どこで意味は終わるのか、終わるとすればその彼方には何が待ち受けているのか。これらがここで提出される問題である。[p.23-24]

  三つのメッセージ[p.25〜]

 


 パンザーニ社の広告には三つのメッセージが読み取れる。
 第一のメッセージの実質は言語的なもので、画面の隅にある説明文であり、ラベルである。それはフランス語のコードで読みうるメッセージ(説明文:デノテーション)であると同時に、「パンザーニ」という記号がその響きによって《イタリア性》とでもいう付加的なシニフィエを伝えている(ラベル:コノテーション)。
 第二のメッセージは四つの不連続的な記号から成っている。
 (1):買い物帰り:製品の新鮮さ、家庭的な食事など
 (2):トマトやピーマン広告の三色(黄、緑、赤)の色合い:イタリアの色:イタリア性
 (3):密集した材料 → 料理の全体像 (service culinaire total)
    :必要な材料の全て、原材料と加工品との等価性
 (4):美学的構図:静物画
 第三のメッセージは上記の記号を全て取り払った後に残る情報的素材であり、そこに映る現実の対象をシニフィエに持ち、写真に取られたその同じ対象をシニフィアンとする。このメッセージの特徴はシニフィエとシニフィアンとの関係がほとんど同語反復的であることである。

【こうしたメッセージ及び記号に着目して、バルトはそれぞれのメッセージごとに(第二と第三のメッセージに関しては論旨の展開上順序を逆転させつつ)考察を続けてゆく。その全てをここで解説はしないが、この論文の標題になっている「映像の修辞学」という小見出しのもとに分析されている第三のメッセージ(上記分類では第二のメッセージ)の主要部分のみを以下にまとめておきたい】

  映像の修辞学[p.40〜] 

 


 四つの記号として捉えられたものはコノテーションのレベルにあり、そのシニフィエの個別性に、個別の分析的言語が対応していないことが分析を困難なものにしている。その一つは上述のごとく《イタリア性》という用語で表しているが、こうしたコノテーションのシニフィエの領域はイデオロギーの領域であり、そのシニフィエに対応するシニフィアンをコノテーター(共示子)、コノテーターの総体をレトリック(修辞学)と呼ぶ。
 イデオロギーのシニフィアンの面として現われるレトリックは、その実質(分節された音、映像、身ぶりなど)によって必然的に変化するが、形式によっては必ずしも変化しない。たとえば夢と文学と映像とに共通な唯一のレトリックの形式が存在することもある。このように、映像のレトリック【翻訳では「映像の修辞学」】は視覚の物理的拘束に服している限りにおいて特殊的であるが、《文彩》があくまでも要素間の形式的関係でしかない限りにおいては一般的である。
 パンザーニの広告において、地中海的野菜、色彩、構図、豊壌そのものは、孤立していると同時に、固有の空間と、固有の《意味》とを持つ一般的な場景のなかに嵌め込まれている。つまり、それらは、自らのものではなく、デノテーションの連辞 (syantagme) のなかに捉えられているのであり、こうして第二(上記記号分類では第三)の逐次的メッセージと、第三(上記記号分類では第二)の象徴的メッセージとの構造的な区別を遡って確立することにより、コノテーション化(共示)されたメッセージの体系を《自然化》するのはデノテーション化(外示)されたメッセージの連辞であることが明らかとなる。不連続的なコノテーターは、デノテーションの連辞を通して連結され、現働化され、《語られる》のであり、不連続的な象徴の世界は、デノテーション化された場景の歴史のなかに浸るのである。

 

【次回第7回講義は、6月1日が学会出張のため、6月8日となる】


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